浦戸城

別名-  付近住所 高知県高知市浦戸城山 現在 桂浜荘
       坂本龍馬記念館
2007/11/15 碑・案内板アリ 日本城郭大系


長宗我部元親→
山内一豊
 鎌倉時代末期にこの地の豪族の城として築かれ、戦国期には長岡郡本山から高知平野に進出した本山氏の勢力下におかれた。永禄3年長宗我部国親が当城を攻めて奪い、居城長岡郡岡豊城の支城とした。国親のあとを継いだ元親は天正16念居城を一旦大高坂城に移した後、同19年頃当城に移し、滅亡まで約10年間長宗我部氏の本城となった。慶長5年関ヶ原の合戦で豊臣方についた元親の子盛親は除封され、土佐は山内一豊に与えられた。長宗我部氏の遺臣一領具足たちの浦戸一揆が鎮定され、同6年当城に入った一豊は、同年9月から高知城の築城にとりかかり、同8年には新城に移り当城は廃城となった。主都としての城下町経営にはふさわしくなかったのだ。

浦戸城は朝倉城(高知市朝倉・県史跡)を本拠としていた本庄氏が、16世紀の初め支城として築いたものである。その後、天正19(1591)年ごろ長宗我部元親が本格的な拠点とし、以後10年間は長宗我部氏の本城となった。
現在、県立坂本龍馬記念館・国民宿舎「桂浜荘」が建っている場所は浦戸城の「詰ノ段」にあたる。浦戸城以前の本城岡豊(おこう)城(南国市岡豊町・県史跡)は、「詰ノ段」を城の中心とする中世山城であったが、浦戸城の場合は、「詰ノ段」の東北隅に中世山城にはみられない「天守」跡があり、その特異性が目立つ。天守跡は「詰ノ段」より高く、「吾川郡浦戸古城蹟図」などをみると「五間四方」と記されている。上面は平坦で南北16m・東西10mの長方形で、標高59mである。周囲は傾斜し、その斜面上に段状部がある。天守は高知城(高知市丸ノ内・国史跡)のような近世城郭にあるものであるが、浦戸城の天守は中世山城に付加したもので、その点で浦戸城が中世山城から近世城郭への過渡期の城であることを物語る。天守には三層の望楼の存在が推察される。説明版に近い石垣は天守から延びた石塁の一部を移築したもので、16世紀後半によくみられる自然石を積みあげた野面(のづら)積みで築いている。
長宗我部氏に替わって、慶長6(1601)年山内一豊が、浦戸城に入城し、2年後の慶長8年には近世城郭である高知城に移った。そのため浦戸城は廃城となった。

 現在地は浦戸城詰ノ段北東隅に位置する、中世の山城としては珍しい天守跡である。天守跡は詰ノ段よりも7m高く、いびつな台形である。上部は東西11m、南北15mで城八幡(手前)・大山祗(奥)の二つの小さな祠がある。天守跡の斜面には石垣の名残と思われる石が露出している。
なお、北側斜面は1958(昭和33)年の展望台造成工事でその一部が削り取られている。松野尾章行著の「皆山集」に掲げる「浦戸城古城略図」には「五間四方」の天守跡が描かれているが、その広さや増築された時代から長宗我部元親の築いた天守は三層であったと思われる。なお、元親が築城した浦戸城以前の城郭である岡豊城には、まだ天守は出現していない。

      

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